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ダンス ファックス

1998年3月号特別企画 舞踏家 岩名雅記 インタビューと文:三崎恵理

自分のメソッドを求めて実験を重ねる

岩名雅記、1945年2月、東京生まれ。幼少の頃はよく乗り物酔いをする虚弱な子供だった。母親が能を習っていた関係で、謡曲を習ったり能の舞台に接することがしばしばあった。1960年に慶応義塾志木高に入学。高校時代には農業の時間があり、土に親しむ。3年後、慶応義塾大学に入学。本人は文学部希望だったが、父親の強い希望で経済学部に入った。1967年、卒業して東京放送(TBS)に入社。しかし会社勤めが性に合わず、1969年退社。新しい人生を踏み出した。

TBSを辞めた後、7年くらい演劇に没頭した。本当は最初から踊りをやりたかったのだが、男がダンスをやることは非常に受け入れられ難い時代だった。そうして始めた演劇だったが、今度は台詞に疑問を持ち始めた。岩名にはどうにも言葉というものが邪魔だった。

この頃、舞踏の創始者、土方巽との出会いがあった。1971年、東京で演劇と暗黒舞踏の合同公演があった時に同じ舞台を踏んだのだ。土方自身のことは、ああ、変な奴だな、くらいにしか思っていなかった。それでも、芦川羊子を含む彼等のやっていることはじっと見ていた。

1975年、30才で遂に踊りを始める。遅いスタートだった。とにかく体を作るためにバレエ、モダンダンス、体操などを習いながら、自分の体と遊ぶということを始めた。当時、彼はそれをダンスとも舞踏とも呼んだわけではなかった。が、体と遊ぶと言っても既存のメソッドがないので、どうしていいかわからない。結局自分自身の方法を捜すために、何でもやってみることにした。

最初は人の真似から始めた。しかし、逆立ちしても真似ているその人以上に素晴しい踊りはできる筈がない。落ち込んではまたやること4〜5年、やがて空間的な制約を持つことが自分の踊りにとって大事なことになると気が付いた。つまり、通常ダンスは動き回ることに結び付くが、空間を限定してそこに居続けるということの中からも踊りが出てくるであろうということを発見したのだ。

そして、「岩名雅記ダンスパフォーマンス」と称してソロを踊る模索の期間が始まる。岩名が裸体で踊るようになったのは、1979年の終わり頃。即興を通じて、裸体を「物」にすることに心血を注いだ。意識や感情を持った体ではなくて、物としての体を徹底的に提示していくという考え方だった。それは構築された裸体であり、安易に服を脱いだだけの裸体ではない。オブジェとして体をとらえるのだ。

1980年から81年にかけて、岩名は「インヴィジブル(見えざる)」という実験シリーズを明大前のキッド・アイラック・ホールで年間5回行った。それは天窓から差し込む自然光の中で全裸で立っているというだけの作品だった。一時間の間に陽光が変化し、それにつれて皮膚がどんどん変色する。こうして皮膚が「踊りの皮膚」に変わっていった。

1983年、土方巽から一緒にやらないかと声がかかった。そして土方の作品「プランB寺模写」に出演。12年ぶりの再会だった。しかし、岩名は集団の中に入っていくのは得意ではなく、結局土方の弟子になることはなかった。ただ、土方の理念には素晴しいものがあり、随分勉強させてもらったという。そして1986年、土方は他界してしまう。

土方の作品に出た直後、岩名はフランス・アヴィニヨンでのシャルトレーズ国際演劇祭に招待され、無音で50分間踊った「蓮の国」が高く評価された。これは彼にとって大きな転機となった。その頃から、人間としての体を考えなければ自分ではないのではないかと思うようになった。衣装とは何か、衣装は自分を飾るためのものではなく、自分を裏切る、或いはひっくり返すものとして装置されるべきだと思った。更に、自分の中の性の両義性、すなわち、自分の中に同居する男性(おとこせい)と女性(おんなせい)を自覚するようになったのである。

エポックとなったのは85年に創った「生成(なまなり)」。初めてヨーロッパ近世の貴婦人の衣装を着けて踊った。自分の中に潜んでいる女性性を踊りたかった。生理的には男だが、自分の中にある女というものを生きて見たいという欲望は子供の頃から強かったと岩名は言う。この年、岩名は自らの舞踊を初めて舞踏と名乗った。「自分でも舞踏が何なのか分からなかったが、舞踏の定義を拡げる、或いは曖昧にさせようと…」と岩名は語るが、自分の踊りに関して多くの開眼があってのことであった。物としての体は、この作品を通じて、魂が通い感情を伴った体へと変転した。それ以降、92年の「水引きに胡蝶」という作品まで女性を踊り続けた。

そして更に岩名は、自分の中に棲んでいる高貴なものと賎しいものに意識を向け始める。しかし、高貴なものと卑しいものは別々にあるのではなく、自分が卑しいものだと認識したときに高貴なものに通じていく。最近、浄土教の原典ともいえる浄土三部教を読んで、その考え方に更に確信を持つようになったという。

指圧とヨガからも多くを学ぶ

さて、そんな岩名の生き方に、家族の反応は複雑だった。大家族を支えてきたサラリーマンの父親は、大変真面目な人だった。慶応の経済を出た岩名がテレビ局に入社した事が既に不満で、ましてや会社を辞めて演劇の世界に入った時は猛反対だった。彼が出演している番組を他の家族と見ていると、仕事から帰ってきた父親が入って来ていきなりテレビを消してしまったこともある。息子をそんな人間に育てた覚えはないという気持ちを直接的に示したのだろう。岩名は父を尊敬していたので反発することもなく、ただ、自分の生き方は父親には理解できないと思っていた。

問題はむしろ母親の方と岩名は言う。サラリーマン家庭の主婦として生きて来た母親は、今もなお息子の生き方に疑問を持ち続けており、諦めない。「僕が踊り続けて20年余り経った今でもまだ、早く堅気の生活に戻りなさいと言われます。」と岩名は苦笑する。

岩名がかつて俳優として、或いは舞踊家として食べていくための方便として始めた指圧やヨガは、実は多いに彼の踊りに影響した。

ヨガで学んだ重要な事柄の一つは、「自分の体を開いて他者にゆだねる」ということ。例えば、エネルギーによって他者を癒す治療師や霊媒には二種類あり、一つは自分の内部のエネルギーで人を治療する人達、もう一つは大気中にあるエネルギーを自分の体を媒体として通過させて人を癒す治療師であると言う。このことを瞑想ヨガの学習中に岩名も実際に体験した。その経験が、空間のエネルギーに自分を任せ、体を物にして踊るということに繋がったと岩名は思う。自分の存在を空間に投げ与えてしまう、「賦存(むそん/実存に対する無存)の踊り」と彼は呼んだ。

指圧からも重大な影響を受けた。人間の身体には指圧でいう経穴(ツボ)があり、我々はそれは常に同じ場所にあると思いがちだ。岩名は指圧の学習の中で経絡、経穴というのは人によって違い、また同じ人の体でも毎日移動するものであることを学んだ。そしてそれは、直接的ではないが、踊りのフォルムと動きの考え方に関わっていった。美しいポジションや形を見せることよりも、動きの繋がりの中でインパクトや繊細さが現れるために、体はどのように運ばれるべきかを考えた。そして、形でではなく、動きの中から何かが現われてくる、という考え方に移行していった。

「ダンスで食べられるなんて…」

フランスに移住したのは1988年、43才の時。それまでパフォーマンスをやりながら、前述の様に指圧やヨガの教室をやって生計を立てていた。当然、好きなことに専念できないという欲求不満があった。そこへ離婚という私生活の変化が起こった。身一つになった岩名は、とにかく一年間フランスへ行ってみようと思った。金がなくなったら日本に帰ればいい、一年間呼吸したんだから、それでいい、と思っていた。周囲の反対はなかった。

しかし、フランスに移った岩名に思いがけず踊りの仕事が次々と舞い込んだ。「そんなことは僕、全然想像もしてなくて。ダンスで食べられるなんて…。」以来、セミナーや公演で10年間生活していること自体が自分でも不思議だと、岩名は笑う。

渡仏の年、フランスに自らの研究所を開設、1985年に東京の自宅アトリエを改造した稽古場の名前「白踏館」をそのままフランス語に訳して、「La Maison du Buto Blanc」とした。そして、それは彼のビジネスネームともなった。

セミナーをするとひんぱんに同じ人達が来るが、弟子はいない。岩名にとって「踊り」とは基本的に自分の踊りたい動機で踊ること。特に舞踏の場合、メソッドを自分自身で見つけることは重要だ。土方巽はよく「遺産で飯食うな」と言ったという。他人の遺産で食べてはいけない、他人のメソッドで踊るなということである。だから、友達はたくさんできても、弟子はいない。

日本の文化は、構造的な産業文化

現在、日本へは年に1、2回、合計二カ月間位帰る。ヨーロッパの人達が舞踏を尊重してくれるのは嬉しいが、彼等にとって舞踏はやはりエキゾチズムの域を出ていないことが多いと岩名は思う。それはダンサーとして危険なことだ。舞踏は日本で生まれた踊りだから、日本には厳しい目もあれば、目利きもいる。そういう人達に自分の過ごした一年間を披露するチャンスとして、必ず日本で踊ることにしている。

岩名は現在の日本の文化状況を、青少年文化、無菌文化、そして構造的な産業文化と考えている。ヨーロッパの場合、文化とは革命や戦い、民族の内紛などから発生したものなので強靭だ。しかし日本の文化は、非常に繊細ではあるが戦いの中からではなく継承や伝統から生まれてきているので、ある脆弱さを伴っている。それに付け加え、現在の日本では大人が青少年を食い物にするかのような文化や経済、産業を作っている。これは非常に大きな問題だと岩名は思う。本当に生き残ってきた者の発する言葉や、大人達が自分の経験から作り出してきた文化というものがありながら、それが前面に出ず、当たり障りのないもの、商売になるものばかりが出てきてしまう。そして、それを支える組織や企画が産業と結び付いて出来たものを文化と称している。「僕にとっては非常に不思議な状態」と岩名は言う。

岩名は彼等舞踏家のやっていることは、社会や一般にとって「反」、「アンチ」という風にとられてしまうと言う。「私が考えているのは、『反』ではなくてむしろ『超/Beyond』であるということです。『超える』ということは、すなわち生命の側に立つということ。特に日本の場合は社会やシステムの中で生命が限定されている。もしくは生命が社会的な職務を果たすための道具として重んじられている。もっと開かれたもの、自然に近いもの、虫や動物、草木等とどこかで繋がっているものが本来の生命であって、そういうものの側に立ちたい、ということですね。」

現在はとかく、注目されるためにはこういう風に作品を作ればいいという風に、逆の方向からアプローチする傾向があるが、そればかりになると、何故踊るのかという一番大事なことを見失ってしまう、と岩名は警告する。土方巽が残した多くの優れた言葉の中に、踊ることの姿勢について「燔犠大踏鑑(はんぎたいとうかん)」というフレーズがある。「これは、自分の身をあぶって痛め、自らを鏡に映して己の未熟さを知り、そして自分達をいつも受け入れてくれる広大な自然を師として踊るという意味で、やはり私が今考えていることに繋がっていきます。」

現在、53才。踊っていると20才は若く見える。本人も踊っているときは年齢を抜け出しているという。しかし、肉体的、経済的に将来への不安がないといえば嘘になる。精神的にも自分で自分を鼓舞しなければいけない。そのために、南ノルマンディーの自宅で、10年間の連続セミナーを始めた。それは自分の目標でもあるし、自分を支えていく力にもなり、彼の踊りに対する欲でもある。これからは自分をオープンにしていくこと、そして、集中力も包容力も持ち合わせた、踊りの質の究極的な豊かさを目指したいと岩名は言う。

資料文献:岩名雅記著

「装束は水」- 岩名雅記独舞 '79〜'93


三崎恵里(みさきえり)

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香川県高松市出身。1982年ニューヨークのマーサ・グラハム・スクールに留学。卒業後、地元のエリオ・ポマレ・ダンスカンパニーで踊る。1992年、舞踊サービス機関ダンス・プロジェクト・シークエンスを設立、ダンス情報誌「ニューヨーク・ダンス・フアックス」と「ニューヨーク・ダンス・スクール/スタジオ・ガイド」を発行する。

私は本来、ヌードを使った踊りは好きではない。裸体ほど難しい衣装はないからだ。人間には本能として性欲と羞恥心があり、舞台の上に裸で立つダンサーを見た瞬間、自分を含めて観客の意識が作品のテーマとは全く違う所へ飛んで行くのが分かる。そして、これは芸術なのだと自分に言い聞かせたり、何故この振付家はヌードを使ったのか、ダンサーは本当にそれを理解してヌードになっているのか、などと考える余計な作業が起こる。作品に集中できなくなり、私には正直なところ迷惑なのだ。

私にとって、その数少ない例外は日本人舞踏家達である。裸体をポルノグラフィー的な意識に引っ張らず、本当に美しく使い、芸術として見せられる彼等は実に稀な存在だと思う。

この人、岩名雅記は積極的に裸体を使い、実験を繰り返して独自の芸術を確立した舞踏家の一人。現在はフランスに在住しヨーロッパで主に活躍する岩名が、昨年11月、ニューヨークで一日だけ「式子内親王傅(しょくしないしんのうでん)」を見せた。抽象的な動きの脈絡の中から、人知れず慟哭する女の心が浮かび上がり、そして突然衣装を取り去った時、純粋な人間の姿が現われた。それは不思議な感動だった。

文中敬称略